ボランティア

2011年05月17日

帰任報告会

3回の被災地派遣に就いたので
災害医療等に携わるスタッフ向けの
現地活動報告会を行う事になりました。

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その前に指導教授などを交えて現状支援の不備など
現地で実際に感じてきた事を報告、指導を頂いています。
一人だけ白衣ではないDr.が災害救命のドン的教授です!

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現地では震災直後の救命活動のほか
避難所に落ち着いてから体調を崩される方も多く
低体温症への対応や心筋梗塞や脳梗塞の原因になる血栓予防などと
それぞれへのメンタルケアなどについて実際に行った活動とその推移
そして気になっていた点などを報告し教授陣から指導を受けました。

その後久しぶりにステーションに顔を出したら・・・

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懐かしい笑顔で皆が迎えてくれました(^^)
でも仕事もしっかりしていますよ!!

この時だけはちょっとだけ手の空いたスタッフが集まってくれて
無事の帰任を祝してくれました♪

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そして週末の外来を利用してスタッフ以外にも
現地の事などに興味のある患者さんもいらして報告会開始です!

スタッフ向けの報告会だったのですが、
週末と言う事もあって患者さんにもオープンにした方が
こう言った活動の普及などに興味を持っていただけたりするので
急きょ会議室から外来ロビーに場所を移しての開催でした。
私もあわてて白衣から着替えましたよ(-_-;)

内容は患者さん向けの一般的なものから
スタッフ向けのものまで前後半に分けての二部制で行い
現地の惨状と震災発生直後の救命医療からその後の健康管理まで
事後に生かせるようなデータとしても有益なものになりました。

兎角医療者の立場からの視線に偏りがちな救助救命活動も
見学頂けた入院患者さんの素朴な意見や質問などから
多角的視野を持って今回の活動を見直すきっかけにもなりました。

そう言う意味でもオープンにした事は意味のある事でしたよ!

まだこれで支援活動が終了した訳ではないのですが
取敢えずの現地活動報告も出来たので一安心でした。

既に通常業務へ戻っている毎日ですが
今後もまた要請が有れば現地へ向かう事になります。
それまでご迷惑をお掛けしたスタッフの為にも
頑張らなくてはいけませんね!

余りの惨状の規模に、ちょっと心が疲れた派遣でしたが
そろそろしっかりしないと!!















nasubi83 at 16:24|PermalinkComments(13)TrackBack(0)

2011年05月11日

心の片隅に。。。

GW一杯までの2週間、岩手から福島までいくつかの避難所等を周り、
被災者の方々の健康管理やPTSDなどのケアに当たってきました。

残念ながら東北一帯には元々PTSDに精通した専門医は
一人もいらっしゃらなかったこともあって
(この分野に精通した専門医は国内に20名ほどしかいないのですが)
必要に応じて関東や関西圏の専門病院と連絡して受診や搬送の
手続きなどの業務をこなしてきました。

福島では前回記事に書いた女の子へ渡す写真とメッセージを
そのお父さんへ託す事も出来ました。
お嬢さんはおばさんの家から転校先の小学校へ通っているそうです。
でも未だにお母さんと妹さんの行方は分かっておらず
お父さんもお仕事の関係で避難所を離れられず
お嬢さんは気丈にも顔では笑っていても、
お友達もいない新しい街の学校でツライ思いをしているのではと
不安の色を隠せない表情で話してくださいました。

ある風の強い日にお嬢さんが転校した先の学校で、
「風が強いから福島から放射能が飛んで来ないでくれ!」と
心無い言葉を浴びせられ泣いて帰ってきた事があったと
預かってくれているおばさんから連絡が有ったそうです。

子供はいじめと言う意識がなくともこうした言葉を発してしまいますね。
言われた側は心に深く傷のつく言葉になってしまう事に気づかずに。。


お父さんは悔しさとも悲しさとも思える口調で
「自分の所にさえ放射能が飛んでこなければ良いということか!?
子供が口にするんだから、周りの大人が日頃から言っているんだろう」
そうボソッと口にされました。

そして涙声で
「みんなで一緒になって頑張ろうとか地方の人が言うけれど
 結局はこうした自分が良ければそれで良いという人がいるんだな。
 口先だけの応援なら簡単だよな。
 罪のない子供にだけは人を信頼できる社会にして欲しいけれどな」

口先だけの応援なら簡単だよな。
この言葉がいまだに胸に重く残っています。

ふざけて出た言葉としても「自分さえよければ良い」と言う感性が
子供たちの心に生まれる事が無いと良いのですけれど・・・
例え周りの大人がそんな言葉を口にしていても
他人の痛みの分かる人間に育ってくれる事を望みたいですね。。。


いくつか回った避難所の一つでもあった岩手の被災地の男の子が
「あの日」を毎日小学生新聞に体験日記として寄せていました。
読まれた方もいるかも知れませんが
小学生でも大人でも関係なく、一瞬で人生を変えた「あの日」を
この男の子の視点で感じて頂ければと思い転載します。


そしてこの子と同じような悲しみを味わったお子さんたちが
今も同じ日本の中にいる事をどうか心の片隅に置いておいてください。
大人として心無い言葉を発することのないためにも。。。


 ◇3月11日

 卒業式の歌の練習をしていました。とてもゆれの大きい地震が来ました。最初は単なる地震だと思っていました。大津波警報が出ても、どうせこないと思っていました。来たとしても10センチメートル程度の津波だと思っていました。全然違いました。ぼくが見たのは、国道45号線を水とがれきが流れているところです。お母さんとお父さんが津波が来る前に大沢小に来ているところは見ました。だけどその後、お父さんが軽トラでもどっていった姿を見ました。お父さんのことが不安でした。車を運転しながら津波にのみ込まれませんように。そう祈っていました。

 ◇3月18日

 津波から1週間。お母さんは、もうこんなに日がたっているのに、まだお父さんが見えないとあきらめていました。じいやんは泣いて「家も頑張って建てるし、おまえたちだってしっかり学校にいかせられるように頑張るから、お父さんがもしだめだとしても頑張るからな」と言っていました。

 ◇3月23日

 卒業式でした。「ありがとう」の歌を歌っている時、お父さんに「お父さん、お父さんのおかげで卒業できたよ。ありがとう」と頭の中で言いました。そしたらなぜか、声がふるえて涙が少し出てきました。その夜、こんな夢を見ました。お母さんとお父さんが宮古のスーパーマーケットから帰ってきた夢でした。

 ◇3月25日

 親せきの人の携帯に電話がかかってきました。内容は、お父さんらしき人が消防署の方で見つかったということでした。急いで行ってみると、口を開けて横たわっていたお父さんの姿でした。ねえちゃんは泣き叫び、お母さんは声も出ず、弟は親せきの人にくっついていました。顔をさわってみると、水より冷たくなっていました。

 ぼくは「何でもどったんだよ」と何度も何度も頭の中で言いました。「おれがくよくよしてどうすんだ」と自分に言いました。でも、言えば言うほど目がうるんでくるばかりです。お父さんの身に付けていたチタン、東京で買った足のお守りや結婚指輪、携帯。そして驚いたのが時計が動いていたことです。お父さんの息が絶えた時も、津波に飲み込まれている時も、ずっと。お父さんの時計は今はぼくのものになっている。ぼくがその時計をなくしたりすることは一生ないだろう。

 ◇3月26~27日

 見つかった時のお父さんの顔。まだ頭のどこかで見なきゃよかったと。でも見つかったおかげで火葬もできるし、お父さんをさわることができた。お父さんの体は水を飲んだのか胸がふくらんでいるだけだ。やっぱり見つかってよかった。

 ◇3月28日

 きょうは火葬の日。ぼくとねえちゃんとお母さんとけいじろうは、手紙を書いて、お父さんと一緒に入れてやりました。拝んでいる時ぼくは「箱石家は頑張って継ぐからまかせて」と言いました。お墓に骨を埋めるまで、ぼくに骨を持たせてくれました。骨をうめてホッとしました。

 ◇4月7日

 きょうは、ありがたいと心から言える日でした。お父さんとぼくたちの記事を見て、お父さんが東京マラソンを走った時の写真とお手紙を新聞の人が持ってきてくれました。ぼくたち家族に贈る言葉や、さらにはぼくに贈る言葉の手紙もありました。やっぱりお父さんはすごい。
今日は本当にありがたい日だ



両親を失った震災孤児は既に130人を超え、
阪神大震災時を超えています。

そのうち既に身内や親族等に引き取られた子供たちは
おおよそ8割ほどだそうです。
そのほかの子供たちは児童養護施設などへの入所も検討され
住んでいた街を離れるだけでなく
友人知人とも隔絶された新しい道を歩まなければなりません。

避難所でご両親を亡くし兄弟二人だけで暮らしていた
高校生の男の子は弟の為に学校を辞める決意をされました。

高校の先生も何度か避難所に来ては慰留していましたが
彼は自分が働けば養護施設ではなく、弟と二人で暮らせるからと
住込みで弟の同居を許可してくれる働き口を先生と話合っていました。


一瞬にして子供たちの人生を変えてしまった出来事から
今日で二か月がたちました。

今被災地は大人も子供も全力で必死に耐えて
そして一日でも早く立ち上がろうとしています。

その力を砕くような
「福島から放射能が飛んでこなければいい」
「自分の所にさえ被害がなければいい」と言う考え方。

そんな考え方をする人がいない事を信じて・・・











nasubi83 at 11:31|PermalinkComments(10)TrackBack(0)

2011年04月23日

約束

最初の被災地派遣は震災直後。
震災による怪我や環境変化による体調不良やPTSD、
クラッシュ症候群などの可能性のある患者さん、
そして元々地元の病院に入院されていた重篤患者さんを
地域外の通常医療行為が可能な病院へ搬送する為の活動でした。

二度目の派遣は、
救命救急患者さんの発生が一通り落ち着き
各地に避難所が設営され、ひとまず命を繋ぎ留めた方々が
避難所での生活の中での体調悪化や持病の継続治療のなどの為
被災者の皆さんの健康管理やメンタルケア
避難所の衛生管理が主な仕事として、いくつかの避難所を回りました。

今後もこう言った健康管理などがメインになる派遣が続くでしょう。
メンタルケアを含めて医師・保健師・看護師などが
連携しながらの復興助力を続けていければと思います。
派遣メンバーも数に限りがあるので1~2週間程度の交代制で
日本各地から集散して活動することになります。

そんな中前回の派遣時にあった思い出と約束を書いておきます。

避難所にも大小色んな規模のものがあり
500人程が暮す主要避難所や30人程の公共施設などを回りました。

その中では多くの場合、家族単位でまとまっていられますが
元々一人暮らしだったお年寄りや、
家族と離ればなれになってしまった方が
お友達や知り合いの方と寄り添って場所を得てらっしゃいました。

私が常駐するようになって直ぐに
 「夜鳴きする子供がいてうるさくて眠れない」
そう言うクレームが有りました。

あれだけの怖い思いをしたのですから、
子供たちがいつも通り寝れるわけないのに、そんなに怒らなくとも・・
そう思ったのですが、一応その子の話を聞いてみると。。。

小学2年生の女の子なのですが、
家族はお父さんだけが一緒に避難所にいて
お母さんや妹さんはあの日以降津波にのまれたのか
行方不明なのだそうです。
しかもお父さんは原発関連の職種に就いているので
昼間は近所の知合いの方に預けられ
ずっと一人で避難所生活を送っていました。
自宅から離れた避難所なので小学校のお友達も殆どいなくて
お父さんがいない時は本当に心細い思いをしていたのでしょうね。

お父さんの仕事が24時間制の勤務のようで
一日おきに夜も不在となってしまうそうです。
そんな時にどうしても淋しさに襲われて夜鳴きをするのだそうです。

あの恐怖を体験したのですからご家族揃った家庭のお子さんですら
子供帰りを起こしても当然の状況です。
このお子さんは本来なら一番甘えたいお母さんの行方が分からず
妹さんもあの日以来一緒に遊ぶ事も出来ずに
周りの大人の会話の中から、段々と「死」と言うものが何かを
感じ取りだしているようでした。

そんな不安を一身に込めて耐えているのに
その上、お父さんはどうしても仕事に出なくてはならない状況では
夜中にフラッシュバックに襲われ泣き出してしまうのも
この環境ではしょうがないほどの悲しい現実でした。

状況をお父さんと話し合い、
夜も一緒にいて貰えるご家族と連絡してもらえるようにお願いして
二日後にお父さんのお姉さん(叔母さんに当たる方ですね)が
迎えに来て下さることになりました。

それまで彼女が寝付くまでは私と一緒にいる事を許可してもらって
夕食が済んだら私の傍へ来て一緒にお話ししたり
何人かのお子さんたちと一緒に漢字や算数のドリルをしていました。

少し心が落ち着いたのか、彼女の方から色々話してくれて
私に甘える仕草も垣間見られて来た時でした。

 「おねえちゃんは犬好き?」

唐突にそう聞かれました。
私がランディと生活していることを話すと
すっごくランディの話を聞きたがり、写真を見たいと言い出しました。
その時写真もなかったので今度来る時見せてあげるねって
約束したら満面の笑みで「うん」って!!
○○ちゃんもワンちゃん好きなの?って聞いたら

 「5年生になったらお母さんが犬飼っていいって言ったんだよ」

彼女が5年生になると妹さんが2年生になるんだそうです
それでお母さんも今は幼稚園への送迎などで大変だけど、
その頃になったらペットを飼っても良いって約束してくれたそうです。

そして 「スカイツリーって見たことある?」

どうして?って聞き返したら
従兄弟のお兄ちゃんが中学の修学旅行で
スカイツリー見てくるって言ったそうでした。

ただその「お兄ちゃん」も津波の後、
何処にいるのか分からないままだそうです。

言葉の端々に、今は連絡の取れない人との思い出が混ざります。
特にお母さんに対しては10時の消灯間際までずっと話してくれました。

一緒に歯磨きして寝る前のトイレも済ませて戻ったら
抱っこしていた私の腕を掴んだままウトウトして寝入ってしまいました。

その晩は夜鳴きもせずグッスリ眠れたようです。
それは周りで休んでいた近所の方たちも一緒ですね。

その翌日、お父さんが仕事から戻ると
夕方近くに叔母さんが迎えに来て避難所を後にしていきました。


避難所に一人でいるよりは落ち着ける環境になればいいのですが
彼女の心の傷を癒すのには長い時間がかかるような気がします。

お父さんはそのままこちらで仕事を続けなければならない為に
避難所に居を置いたまま、一日おきに戻られていました。
被災者でありながらも原発に関わる方の難しい一面でもあります。



彼女とも約束したので、
今回の派遣時にはこんな写真を持って行こうと思います。

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隅田川からのスカイツリーとランディ

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いつの日か彼女がご家族と一緒にこの風景を自分の目で見て欲しい。
そう願いながら、お父さんへ写真を託そうと思います。






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2011年04月20日

意識の乖離

被災者shinjiさんのコメントから思う事。。。

被災地を目の当たりにした方と、報道からの情報だけでは
被災者の方への意識の違いが現れるのは当然のことですが
下記の記事に出ていた現地レポが今の被災者の方の心情を
クローズアップしているのかなぁと感じました。

コメントにあったように衣食足りずには
心和ませられるものも感じ取れないというのが印象的でした。


http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_earthquake3__20110419_35/story/postseven_17870/

「1日も早い復興を」「東北再生」といった言葉に、
戸惑いを感じている被災者もいるようだ。
妻と子供を亡くした40代の男性は、自宅のあった場所から
少しずつ範囲を広げ、いまだ家族を探す毎日を送っている。

「家族の遺体すら見つかっていない状況で“復興”なんて
いわれても……。
なんとか遺体だけは見つけてあげたい。
先のことは、すべてその後だと思っている」

この男性は、テレビで「前を向こう」というメッセージを耳にするたびに
自分とは遠い言葉だと感じてしまうという。
なにしろいま彼が目にしているのは、
家族がそのどこかに埋もれているであろう一面の瓦礫と、
その瓦礫を轟音を立てながら押し退けていくブルドーザーなのだ。


大きな余震の度に身体を震わせる恐怖や
電力供給の逼迫から鉄道などの交通機関の間引き運行、
そして行政や自治体を挙げての節電&節電。。
首都圏でも可也の非日常を感じ、確かに行楽気分も半減しています。
各地の桜祭りも実施されないところも多った事も事実です。

ただこれは都知事の発言だけが目立った「自粛」ではなく
物理的に開催出来ない事情もありました。

桜の名所の公園等ではお祭りの際には衛生面や治安維持から
仮設トイレの設置や夜間照明の取付けを実施していました。

その仮設トイレは東京マラソンや横浜国際駅伝などでも使用し
自治体が管理保管している物ですが、この震災発生直後には
東京・神奈川・埼玉などからの援助物資として被災地へ送られました。
つまりお祭りの時期に仮設トイレが首都圏に殆どない状況でした。

そして今でも首都圏の電力不足に対する節電の影響で
駅や病院ですら一部エスカレーターやエレベーターを止めています。
お年寄りや妊婦さんなどは電車に乗るのにさえ
駅の係員を呼ばないとホームへ行けないなどの支障に耐えています。

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計画停電中には交差点の信号機も止まり、そこで交通事故が発生。
搬送された病院ではCT等の検査機器が停電で使えず
非停電エリアの病院へ1時間以上かけて再搬送する事態になり
患者さんは意識不明のまま生死を彷徨う状態だったそうです。

病院の非常電源や自家発電は
病室等の呼吸器維持などの最低限の電力しかなく、
検査機器のような大容量電力を要する機械は動きません。

そうした環境が行楽や買物に出かける気力も湧きづらくしています。
これが東京電力や東北電力管内で生活する人の心情でしょう。


私が避難所の回診をしていた際に
役所の係員と東海地方から来たという60代の女性2人組が
もめている所へ出くわした事がありました。

女性たちは避難所を見てみたいという事で
避難所見学を申出たのに拒否されてクレームを言ったそうです。
東海地方では余震の恐怖も電力不足も無いでしょう。
だからなのか見学理由は自分のブログへ載せる事だそうでした。

被災地支援でも家族見舞いでもなく、
ただ自分のブログへ旅行記のような記事を書き
避難所を見て来ましたとブログ仲間へ知らせたいと言う事です。

職員の方が、被災者の気持ちを考えて
写真などは自粛して欲しいと要望しても体育館へ入り込んだり
とても60代の分別ある人のする事ではないと窘められていました。

そして帰り際に放った一言が
「ここまで来てお金使っているんだから経済に貢献してるのよ
 復興を手助けしてるんだから写真ぐらいいいじゃない!
 自粛自粛って言ってるといつまで経っても復興しないよ」

自粛していれば経済が回らないとはよく聞く言葉です。
確かにその通りでしょう。

ただその裏にはこうした非日常と言う現実が
被災地や余震・電力不足の続く地域に今も有る事を
忘れないでいて欲しいと願います。

そしてどうか「自粛」の意味合いを穿違えて捉えないでください。

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今年の千鳥ヶ淵の桜です。

この花の美しさを美しいと心から感じられるためには
皆が衣食足りて明日への思いを馳せられ
そして初めて心のゆとりが生まれてからなのでしょう!

被災地にも今年もこの花は咲く綻ぶでしょう。

みんながこの花を見る余裕を持てて
そして心から美しいと感じられる日が一日も早く来るように
私も微力を尽くして行こうと思います。


来週にはまた被災地へ向かいます。
桜は終わっているでしょうが、ハナミズキやタチアオイ
そして紫陽花の頃までには少しでもゆとりが持てるようになれば・・
そう願いながら被災地で活動してきます。

避難所で出会ったお子さんたちとの約束もしっかり守れるよう・・・
行って来ようと思います。

































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2011年04月09日

ウンチ君とピッピちゃん

ご心配をお掛けしましたが
お陰様で私は元気で後任部隊へバトンを渡す事が出来、
昨夜遅く取敢えず一旦帰宅することが出来ました。

離任直前の深夜には最大震度6強を記録する
巨大な余震に見舞われました。
この余震だけでもその規模は阪神淡路に匹敵するほどだとか。。

そろそろ寝ようと車で寝袋に入ろうとしていましたが
直ぐに避難所へ戻ろうと駆け出しました。
なのに地面の揺れについていけず
暫く座り込むほどの長く大きな激しい揺れでした。
事実あの余震のショックで亡くなった方も出てしまいましたし
重軽傷者も多数出てしまいましたね。。

そんな大揺れの直後にやっと復旧した電機も消え、
津波注意報も出て再避難の心配も頭を過ぎりましたが
私が不安な顔をする訳にもいかないので
カラ元気を出して、出来る限りの笑顔で避難所を回り、
怪我した人や気分が優れなくなった人がいないか
一人一人に声を掛けながら皆さんの周りを
懐中電灯で照らしながらのラウンド。

何処の被災現場でもそうですが、
目を覆いたくなる光景や被災者のバックグラウンドが
見えれば見える程こちらも涙したくなるような感情に揺さぶられます。

それでも救援に行く医療者である以上
同情的な涙は被災者にとって迷惑以外の何物でもありません。
被災者が医療者に求めるものは同情ではなく医療支援なのですから。
だからこそ、こう言う時は落ち着いた振舞いを心掛けています。
それが患者さんや被災者の方の安心へ繋がると思いますので。。

それでもさすがにこの余震には皆さんこたえたようで
「いつまで続くんだ!」とか「遠くへ避難したい」などの叫び声が。。
避難所とは言え大きな余震を何度も受けているので
その耐震性に不安は尽きません。

私がこちらへ来た時にはまだ雪もチラついていましたが
もう直ぐ春を告げに桜も咲きそうな気温に心和む日もありましたが
これでは春を楽しむ心のゆとりはまだ持てないでしょう。。。
これが被災地の現実かも知れません。

毎日続く余震に殆どのみなさんは地震酔いに悩まされ
多くの人がPTSDと言う状態では、例え仮設住宅が出来ても
余震や放射線被害の不安が解消するまでは
常に強いストレスとの戦いが続いてしまうのが心配です。


そんな被災地の情報と言うと悲惨な記事ばかりが目立ってしまい
またそうした報道が多い事も事実でしょう。
でもこうした現状だからこそ敢えて私がひと時を共にした
避難所での明るい話題をチョットだけ紹介しようと思います。

避難所では子供たちの朝も早いです!
避難が永くなり、もう慣れたとはいえ
やはり熟睡できる程に気持ちの余裕は
小さな子供たちでさえ持てない毎日だからでしょうね。

外が明るくなるころには何処となく誰となく人の動きが始まって
5時半にはもう殆どの人が布団を畳み始めています。

4月に入ってから大分支援物資が入るようになり
既に救急の患者さんのケアはほとんどなく
ストレスによる体調悪化やメンタルケアと
元々罹患されていた持病への対応
それに健康管理や病気の予防が主体になって
私も一応保健師でもあるので保健師業務も行っていました。
放射能汚染の影響で中々この地域へ保健師を派遣する
自治体がなく相対的に保健師が不足しているのです。

被災者は慢性化する先の見えない不安や、
不慣れな共同生活を余儀なくされ、
家族や知人を亡くされたり、遺体すら見つからない方も多く
仕事や学校の再開の目途の立たないやり場のない喪失感。
そして配給食に頼る嗜好に沿わない食事など
皆さんのストレスの元は尽きません。

そんな中、本来なら既に新学期が始まっているであろう
小中学生やそれより小さなお子さんたちが
炊き出しの用意ができるまで手持無沙汰な顔で佇んでいます。

そして血栓予防の為、毎朝皆さんに体操をして頂くための準備や
その後の診療手配をしている私の周りへ来ては
珍しい器具などを眺めながら色々話しかけて来てくれました。
少しずつ話し始めていると何人かのお子さんは
毎朝のようにやってきて私の準備を手伝ってくれ始めます。
それでも手伝いが終わると手持無沙汰は元通りになり
食事までの時間を持て余していました。
食事は炊き出しの為に10時ぐらいになる事も良くあります。

だったら皆で何かしようよって子供たちに声を掛けたら
お子さんたちも私の提案に乗ってくれて、じゃぁ何をしようか!?って。

中学生の女の子が避難所のお掃除を皆でしたいって言うので
お年寄りのスペースなどご自身で掃除できない方の周りを中心に
私も一緒にみんなで毎朝少しずつお掃除することにしました。
そうしているとある朝 「トイレが詰まって使えない」
そんな声が聞こえてきて子供お掃除部隊もトイレへ急行!

基本的に避難所は自主管理なので
自分たちでできる事はそこにいる人で解決するのですが
トイレの汚れが原因で詰まる事も有るので
私と一緒に中学生の男の子も手術用の手袋はめて
(ゴム手袋が有りませんから私の持って行った医療用具から借用)
詰まってしまったトイレの便器の中まで
手を入れてのお掃除をしていた時のことです。
(詰まりを流す掃除用具もないので直接手で押し流しました)

小学低学年のお子さん達が
「なすび姉ちゃん、僕も手伝いたいけどやっぱり汚いよぉ」って (-_-;)

それも仕方ない事だけど、その子たちに

 「ウンチ君やピッピちゃんはこうして見ると汚いけれど
 身体の中にずっと貯まっちゃうと怖~い病気になっっちゃうんだよ!
 だからこうしてトイレで出てくれると皆元気でいられるの。
 そう思うと出てくれると嬉しい事だって思わない!?
 それにね、トイレが汚れていると色々な病気の元が人にうつって
 一杯の人が病気になっちゃうこともあるの
 だからトイレを綺麗にしているだけで病気の予防にもなるのよ!」

片手を便器に押し込みながらそう話してみました。

汚いけれどウンチも大事な元気の元だから名前を付けてウンチ君。
オシッコも色や臭いで健康状態が分かるからピッピちゃん
                        (一応フランス語です(-_-;)
そうして名前を付けて話したら、キャハって笑いながら答えてくれて
水汲みや雑巾絞りなどを手伝ってくれたんですよ^^v

朝食前のひと仕事を皆で楽しみながら過ごした毎日でした。
私は支援物資の配給食を食べるわけにはいかないので
持参したカップ麵など朝夕二回だけの食事ですけど、
子供たちはみんな3食美味しく炊き出しを平らげてくれていました。

そして食べた後は私の所へ来て
「今ね、ウンチ君が昨日よりいっぱい出たんだよ」とか
「さっきのピッピちゃんは色が濃かったから水を一杯飲むね」って
報告にも来てくれていましたよv(^^)v


この避難所の学区では、新学期開始が例年より延期され
それまで何もしない毎日では子供たちでさえ不安が募ります。
それがストレスになってはPTSDも悪化してしまうでしょう!

こうしてみんなで「何か」をする事で
連帯感や一人じゃないという安心感、そして役にたっている
他の人に喜んでもらっているという充実感も得られるでしょう。

塞ぎがちだったお年寄りの方々も、毎朝の子供たちのお掃除で
子供と話す機会も得られて笑顔も取り戻されました。

もう少しの辛抱ですよね!?
絶対復興していきますよね!?
そうしなければいけませんよね!!
こうやって子供もお年寄りも皆の力で乗り切りましょうね!!!

私は遠目に見ながら、そう心の中で叫んでいました。

今回の二度目の派遣は震災直後の派遣時と異なり
重篤患者さんのケア&移送の緊急派遣任務ではなく
この避難所を拠点に午前中は避難者の方の診療や
不安解消のお手伝い、そして健康管理の業務を行いながら、
午後からはコーディネーターからの情報をもとに
診療を待っていられる方がいる別の避難所や保健師のいない病院
それに地域の役場へ出向いて診療を繰り返す毎日でしたが
最初に入った時より皆さん少しずつ笑顔が戻ったようにも感じました。

まだ大きな余震が頻繁に起こり
私も揺れの度に身構える程の恐怖を感じる日々でしたが
あの大地震や津波を乗り切った大切な命なのですから
放射能の危惧は残りますが、
いつの日か皆が笑顔になれるよう微力を尽くして行こうと思います。

あなたが笑顔でいられるように♪
みんなが笑顔でいられるように♪











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2011年03月28日

普通こそ幸せ

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ご心配をお掛けしていますが私は元気でいます。
震災当初、地元での被災患者さんの情報確認や
震源地に近く最も被害を受けた地方からの患者さんの受入の為
所属病院にてその対応準備に努めていました。

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被災状況が明らかになるにつれ
被災地での救命患者さんの対応ができない事が明らかになり
その後通信手段のない地域での患者数の把握すらできなく事で
各地・各団体が緊急支援に現地へ赴くことになりました。

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関東近郊の3次救命を担う病院では
東北地域よりの搬送受入の為、スタッフや薬品などの確保や
前線へ送り出す指揮命令系統の基地となる為に
直ぐに被災地に入ってくださったのは関東以遠のDMATなど
既にニュースなどで報じられた通りです。
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やがて受け入れるための搬送に要する燃料や
現地での情報入手の難しさも手伝い、
現地からの搬送を待つだけでは間に合わない状況になり
海外の救援隊や国内各地の団体が一斉に人命救助へ駆けつけ
徐々に大きな病院から医療体制も立ち直りが見えたのですが
停電や物資不足で診療も侭ならず、避難所では体調を崩す方も増え

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出来るだけ早く診療体制の整った地域への移送が急務となり
うちの病院からも医者や看護師以外にも
避難所での診療補助の目的で、教え子でもある看護学生も
私たちと一緒に現地へ入りました。

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私は緊急処置の必要な患者さんの搬送に同行するため
民間のドクターヘリや各地から応援に駆け付けた救急車で
患者さんを北海道から関東のいくつかの病院へ送り届けました。

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その間に薬品や衛生資材などの補給の為
ここ数日地元へ戻り現地で不足しているものを調達しています。
そして今日の午後又現地へ向かいます。

そんな状況ですが少しでもこのブログを見て下さった方が
現地の生の状況を見て感じて下さったらと思い
移動中などに撮った写真を掲載しておきます。

ここは原発避難地域のすぐ外側です。
津波で町が壊滅した岩手・宮城の沿岸地域へも行きましたが
今はこの退避エリアで移動困難な患者さんのケアの為
活動しています。



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これは自宅の井戸の蛇口に竹を割った樋をつなぎ
生活水として利用しています。
横に見えるのが情報収集のためのパラボラアンテナ。

兎に角みんなで今を切り抜けています。
日々やり過ごすことにこれほどのエネルギーが必要なのかと
先の見えない不安に震える被災者さんの身体や心のケアに
もう暫く向き合っていこうと思います。

そうした状況下ですので
コメント頂いていた皆様へのお返事が出来ませんが
もう一度帰宅できましたら必ずお返事いたしますので
どうぞこのご無礼をお許しください。

そしてこれを読んでくださった皆様に
申し訳ありませんがお願いがあります。

どうぞ皆様はお身体を大切にされ、体調を崩される事のないよう
そして笑顔をお忘れになる事のないようお過ごしくださいね。
併せて節電・節水にご協力くださればこの上なく幸甚に思います。


それではこの足でまた現地へ向かいます。


季節の変わり目でもあり、体調変化の季節がら
どうぞ皆様ご健康であることを大切にお過ごし下さい。

「日々普通」こそ一番の幸せなのかも知れません。







nasubi83 at 11:03|PermalinkComments(16)TrackBack(0)

2011年03月09日

救助できた喜びは大きいですが。。


1月の新聞に載っていた記事ですが。。。

雪の山道6キロ、担架で急患救う 岩手・岩泉

大みそかから大雪に見舞われた岩手県岩泉町で1日未明、
積雪で救急車が入れない地区の心臓病の急患を
岩泉消防署員たちが山道を歩いて搬送して命を救っていたことが、
4日わかった。

 同署によると、1日午前0時過ぎ、同町門上救沢の
心臓病の女性(46)の家族から「具合が悪くなった」と
119番通報があった。
救急搬送は本来3人だが、署員たちは雪の影響を考えて7人で出動。
同署から女性宅まで約21キロで約30分の距離だった。
だが、道路の除雪が追いつかず約3キロ手前で
救急車は通行できなくなったという。

 女性は狭心症で、一刻も早い手当てが必要だった。
署員たちは深さ70センチの雪の中を歩くしか手段がなく、
担架と機材を持って雪をかき分けて道をつくりながら山中に入り、
女性宅に向かった。女性宅まで50分かかった。
さらに女性を担架に乗せて徒歩で救急車まで戻り、
病院に到着したのは午前4時過ぎだった。
だが、女性は治療を受け助かったという。

 同署の飛沢誠副署長は
「今回のような大雪は緊迫感もあったが、日ごろの訓練の成果」
と話す。



丁度これと同じような体験を、昨年のお正月に経験しました。

  雪国便り~ドクターヘリよ飛んで来て!

雪国の壮絶な救命搬送は最後は人の手に頼らざるを得ませんね!
そしてみんながその事を理解し助け合って生活している。
そのつながりが本当に温かいものに感じた雪国勤務でした。


先日、勤め先の同僚が無断欠勤しているのでおかしいと思い
自宅や実家へ連絡するなどして室内で倒れているのを発見され
瀕死の状態で搬送されてきた患者さんがいましたが
自分に置き換えてみても、人の密集の中で生活しているにも拘らず
その異変に敏感に対処してくれるようなコミュニティって
身近に有るのかなぁと不安のような諦めのような思いになりました。

担架を担いで雪道を歩く事は、
通常の搬送の何倍もの集中力と体力が無くては出来ない事ですね。
日頃から訓練しているとはいえ、実戦でしかも心疾患の患者さんを
搬送するとなれば、その緊張感を思うだけで敬服してしまいます。

今回一緒に派遣された救助隊員の中にもこうした訓練を受け
派遣されてきた方もいらっしゃいましたが
その訓練の壮絶さを思わぬ形で目にしました。

その訓練を持ってしても今回の救助では・・・
未だに無念さが残ります。

現場の状況から難しい事は当初より感じていたことなのに
する側もされる側も「奇跡」を信じて頑張ったのですが。。


私たちが直接任務を引き継いだ2次隊も
既にその任務を3次隊へ引継ぎ帰国しました。
そして今現地で活動している3次隊には
もう、救命を担う医療スタッフは含まれていません。。。












nasubi83 at 10:11|PermalinkComments(18)TrackBack(0)

2011年03月05日

無念。。。

派遣要請を受け

一人でも多くの生存者の救助と治療を目的に
一刻も早くと被災地へ駆けつけたのに・・・

私たちにできる事は治療ではありませんでした。。。

 
ご家族も駆け付けられたというのに・・・
まだまだこれからを夢見る若い方が一杯いらしたのに・・・
同じ看護の道を究めようと、
人の為・特に海外の医療弱者の為にとケアのスキルアップを図りに
彼の地で頑張っていた医療従事者の方々も居たというのに・・・

なぜあのビルだけがあそこまで酷い被害を受けたの?

私が学生の頃滞在したあの町は
美しく落ち着きのある過ごしやすい街並みだったのに。。。

砂煙と瓦礫が街を覆い
あの日お散歩に歩いたハグレー公園は
今回は私たちの宿泊テントを張る野営地に変貌し
学生時代に通った美味しいレストランもすでに閉鎖され
記憶に残る街並みではなくなっていました。。

隊として日本から持参したレトルト食品やカップ麺などの
被災地ではもうお馴染みになった食事。。。

今まではその食事も日々の要救助者を助け出せた喜びで
美味しく頂けていたのに・・・・

24時間体制で臨んだ救助・治療活動の日々も
生存者の救出のないまま時間ばかりがすり抜けていき
食事の際の会話も疲労の重みと比例し徐々に消えていく日々・・・

隊員は皆そこに一人でも生存者が居ると信じて日々活動し
一刻でも早く助け出したいと瓦礫に向き合い
ご家族の不安な眼差しを背中に察し
一秒でも早くご家族の元へ吉報を届けたいと胸に秘め
絶対にこの下で助けを待っていると祈る思いで
余震の度に襲う近くの瓦礫の倒壊の恐怖も、
深夜に降り続く冷たい雨も顧みずに要救助者の発見に努めたのに・・


救助された方も日本語の通じない病院で治療を受ける不安に苛まれ
それだけでストレスになった事でしょう。
私がケアに関わる事のできた方はホンの数人。。。

私たちの力ではご家族の方へ
安堵と笑顔を届けることは出来ませんでした。。

帰国された被災者の方もいらっしゃるでしょうが
彼の地へ残してきた友の笑顔と一緒でないことに
自己の安らぎは簡単には訪れないでしょう。

救えなくて本当にごめんなさい。










nasubi83 at 06:28|PermalinkComments(10)TrackBack(0)

2011年02月22日

取り急ぎ

日勤の勤務中に派遣要請の打診が入り
早ければ今夜にもクライストチャーチへ向います。

詳細がまだ入りませんので
誰がどのくらいの期間派遣されるか分かりませんが
これから召集スタンバイの為事務局へ向かいます。

邦人が被災している情報も入っているので
邦人保護の目的からも緊急援助隊が組まれると思いますが
政府派遣なのか、NGO派遣なのか
もしくは後方支援なのかもまだ不透明な状況ですが
取敢えずこれから向かいます。

コメント頂いていた皆さん、お返事できずにすみません。

                    なすび

nasubi83 at 17:23|PermalinkComments(23)TrackBack(0)

2011年02月11日

子供たちの優しさは明日への希望です!

キャンプの中では毎日が殺伐とした喧噪の世界。
勿論衛生状態も良いとは言えない環境のなかでも
そこをベースに生活するしかない被災者の方も
まだまだ多いのが悲しいかな実情。。

治療や衛生指導の巡回で何度か訪れたその難民キャンプでは
仕事にあぶれたお父さんたちが覇気のない顔で佇んでいました。

同様にお母さんたちも、将来どころか明日の光も見出せず
頼るべき行政も機能しない現状に希望をも忘れているかのように
呆然と日々の糧を求めて時をやり過ごしているだけでした。

それでも私たちが巡回指導に伺うと、
子供たちは物珍しい顔で我先にと駆け寄ってきてくれます。

本来の初期治療や衛生状態改善指導などのレクチャーの他
簡便な治療行為では対処できない重篤な症例の患者さんには
ベースキャンプの診療所へ運ぶ手筈などを整え
小さな子供たちへは国連や私たちが持って行った石鹸の使い方や
手を洗う事の大切さ、そして水の濾過の仕方や煮沸消毒の重要性
自分や家族、それにキャンプの人が体調を崩した際には
直ぐ診療所を訪れる事などを分かり易く話して聞かせて来ました。


そんな事を何度か繰り返しているうちに
大人が覇気を失う程の劣悪な環境下のキャンプの中でも、
子供たちの逞しさ、そして目を見張るほどの優しさを
涙があふれる思いで垣間見せられました。

丁度お昼の食事の時間に差し掛かった際の事
お昼ご飯はみんながみんな食べるのではなく
配給品や畑で採れた物などに余裕のある家庭の人が
口に出来るだけで、その他の人は朝夕の配給食がメインになります。

当然食べられる人と、そうでない人が同じキャンプで混在します。
大人はそれでも座ったまま見つめていられるのですが
可愛そうなのはやはり小さな子供たち・・・

そんな時、少し年長のお兄ちゃんお姉ちゃんたちが
何軒かの食事を作っている家庭を回って
お皿に少しづつ食べ物を貰ってくるんです!

最初は自分たちで食べるのかなぁと、遠目で見ていたのですが
一通り食べ物を集めて回った後は、キャンプの隅っこに集まって
お昼ご飯の食べられない家庭の子供たちを呼び寄せては
一人づつ、少しづつだけど分け与えているんです!

こんな子供たちがいる国は、絶対に復興しますよ!!
そう感じてキャンプの責任者の方と話したら・・・

「あの子供たちは貴女方海外ボランティアを真似ているんです」

そう仰ったんです!
もしかしたら私たちのこの行動が、現地の子供たちの心に
「何か」を閃かせられたのかも知れませんね。。。
なんて言ったらおこがまし過ぎですね、すみません。。

でもその責任者の方がこう付け加えて下さいました。

「地震でこんなになる前だって、ひったくりや強盗はあったんだ
 私が小さい時も皆飢えていたし貧しかった。
 それが地震でみんな希望を亡くしたのに
 貴女達が来てから子供たちの思いが変わったように見えるよ。 
 
 人の分を奪ってでもお腹一杯にしたい年頃なのに
 自分たちで出来る事を考えて、忌み嫌われる事も有るのに
 小さな子にあげる為にご飯を貰って回る年上の子たちの
 思いやりや優しい気持ちが生まれ育ったことが
 この震災での唯一得た物かも知れないよ。

 貴女方が地球の裏側から駆けつけてきてくれて
 怪我や病気を治してくれる事は嬉しい事だけど
 それ以上に子供たちが将来を考えて、 
 小さな子供やお年寄りを大切にする気持ちを育んでくれたのが
 ハイチ人として私は一番嬉しいんだ」


そう仰って下さったのが印象的でした。

派遣前は治安の悪化や私達外国人に対する敵対心に不安を覚え
コレラの感染拡大を抑えられない現状に無力を感じてもいましたが
やはり求められる所で仕事の出来る幸せが実感できた
そんな瞬間でもありました。


数年後、きっとあの子供たちが
ハイチを発展させていくでしょうね!

そうなった頃、もう一度行ってみたい国になりました。
その時は観光でね(^^)






nasubi83 at 06:29|PermalinkComments(8)TrackBack(0)
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